ホロデッキ思ったことをぽつぽつと書いてみるブログ。 

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老い――死を思い起こさせるもの

   ↑  2012/02/11 (土)  カテゴリー: 哲学
老いとは何でしょうか。Wikipediaによれば「老化とは、生物学的には時間の経過とともに生物の個体に起こる変化。その中でも特に生物が死に至るまでの間に起こる機能低下やその過程を指す」とあります。
もっと短く言えば「肉体が徐々に壊れて死に近づいていくこと」と言えるでしょう。

老いや老化という言葉は死を想起させるため、加齢やエイジングという言葉に言い換えられる場合があるそうですが、死を「見ないふり」をして生きるような気がして、好きにはなれません。

私の場合、30代も半ばになると、20代の頃に比べて体力の低下を感じたり、加齢臭らしきものが気になりだしたり、白髪がちらほら見え始めたりと、明らかに若い頃とは違う感じがしますが、これが老いの始まりなのかもしれない、と思います。

老いはライフスタイル等によって速度を遅くすることはできますが、逆戻りさせることはできません。どんなに頑張っても人は皆、刻々と老い、死に近づいていくのです。

メメント・モリ――すべての人に、自分がいつか死ぬ存在であることを思い起こさせる、それが老いの役割の一つではないでしょうか。
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2012/02/11 | Comment (1) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

神は存在するか

   ↑  2012/02/06 (月)  カテゴリー: 哲学
中学生の頃、何だったか忘れましたがキリスト教系と思われる新宗教を信仰しているクラスメイトがいて、その伝道用に作られたであろう絵本を見せられたのを覚えています。

そこには、石を叩いて作られた打製石器の絵が描かれていました。石器の中でも特に単純なもので、道具として使いやすいように石に最小限の加工をしたものです。
その絵に続く文は、確かこんな感じでした。「このような単純なものにさえ、人間という製作者がいたのです。それならば、その石器よりも遥かに複雑にできている我々人間にも、製作者がいると考えるべきではないでしょうか」
その人間を製作した者とは、言うまでもなく創造主としての神のことを指しています。

はたして神は存在するのでしょうか。上の絵本の説について、すぐ疑問に思うことがあります。石器を作った人間。人間を作った神。ならば、その神を作った神も存在するのではないか。そのまた神の神を作った神も……。

このような無限ループに陥らなくとも、私がこの宇宙に意思を持った生命として存在している理由を考える時、それは神の意志なのだとして、ではその意思を持った神が存在している理由を問うても納得のいく答えがないのでは、私の存在理由を神に求めるという方法は失敗に終わります。

しかし、例えば生物をはじめ自然界のあまりにもよく作られた仕組みを見ていると、そこに何らかの超越的な意思が関与しているのではないかと思える時があります。神など存在しないと、簡単にばっさりと切り捨てることはできません。

神は存在するかという問いは、死んだらどうなるかという問いと同様、最後まで答えの出ない問題なのかもしれません。

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2012/02/06 | Comment (1) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

意思を持った存在としての生命

   ↑  2012/02/05 (日)  カテゴリー: 哲学
すべての現象は科学で説明がつく、という考えは正しいでしょうか。

私は、どんなに科学が進んだとしても、生命、とりわけ「意思」を持った生命がなぜ存在しえるのか、という問いに、科学が完璧に答えられる日は来ないのではないか、と思います。

ここで言う意思とは、単純化すれば、例えば左手と右手がどちらも不自由なく動かせる状態で、どちらか手を挙げなさいと言われた時に、左手を挙げるか右手を挙げるかを自発的に決めて挙げること、あるいは左手にしようか右手にしようか考えて決定する心の働きそのものを指しています。

人間をはじめ高度な知性を持った生命は、肢体を動かすこと一つを取ってみても、こう動かしたいという「意思」で動かすことができますが、これは、物理学の観点から見ると、とても不思議なことではないでしょうか。

物理学では、ある全く同じ条件下に置かれた事象は、同じ現象を起こします。地上1mで手から離れた鉄球は、何回実験しても地面に向けて落下します。何百万回かに1回は、空に向かって上昇する、というようなことはありません。

ここで例に出している、どちらの手を挙げるかを決定して動かすことも、最終的には脳が判断して指令していることなので、脳の中での物理現象が結果を決めていると見ることもできます。
つまり、意思決定する直前の脳の状態を見れば、どちらの手を挙げる決定をするのかが、「既に決まっている」ということです。

あの時左手を挙げることも右手を挙げることもできたのに、私は右手を選んだ。と思っていたのは、実は脳内の物理法則に則って必然的に出た結果である――物理学的に説明すると、こうなってしまいます。

人間が自分の意思で行ってきたのだと思ってきたこと、それは実はすべて単に物理法則に則って結果の分かっていたことに過ぎないのでしょうか。物を作り、文章を書き、苦しくて息を切らせながらもゴールを目指して走り、宇宙にロケットを打ち上げ、といった、自分の意思で行ったと思ってきたことは、本当に脳内の物理法則の結果に過ぎないのでしょうか。

私は、否と答えたい。物質的には脳なくして心の存在はないだろうと、以前の記事で書きましたが、上記のように科学ですべて説明がつくとは、どうしても思えません。

左手を挙げるか右手を挙げるか、迷いに迷った挙げ句、やはりその先には、どちらを選ぶかは私の「意思」にゆだねられているのだと思います。決まっているのではなく、どちらも「選べる」のです。

こういう観点から見ると、タイトルの「意思を持った存在としての生命」この存在は、単に科学で説明のつく自然現象に過ぎない、とは言えないのではないでしょうか。とても不思議な存在です。

複雑に原子が組み合わされてできただけの入れ物に「私」という心、意識が宿っている。私はその体を抜け出すことはできないが、確かに存在する。これは不思議ですが、事実です。

心のない、ただの機械であれば、喜怒哀楽も感じることはないでしょう。プログラムに従って命令を実行するだけですし、壊されそうになっても叫びません。
私たち人間は、心を持ってしまったが故に、その心が無になってしまう「死」に対する恐怖を感じ、それをどうにかして克服しようと、哲学や宗教を生み出してきたのではないでしょうか。

今回は、私が死について考え始める前提となった、生命に宿る「私」の存在を、意思は科学で説明できるかという観点から、書いてみました。
高校時代に物理学を学んだことがないので、おかしい部分等がありましたらご指摘くださると幸いです。

(記事編集) http://holodeck.blog.fc2.com/blog-entry-3.html

2012/02/05 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

死について――最後まで残る人生のテーマ

   ↑  2012/02/01 (水)  カテゴリー: 哲学
皆さんは、自分が死んだらどうなると思いますか? いろいろな考え方がありますが、下記の2つに大きく分かれると思います。
  1. 天国や死後の世界がある。あるいは、そういうものがなくとも、何らかの形で意識は残る。
  2. 全くの無になる。意識というものも存在しない。
どちらかというと、1を選ぶ方が多いのではないでしょうか。生まれ変わりを信じたり、亡くなった親しい人が自分を天国から見ているのだと信じたりする方が多いことからも、そう想像できます。
私も以前は漠然と1の考えでした。いや、私が今まで信仰した2つの宗教に熱心だった頃は、それぞれの教えが示す形での、死後の世界を信じていました。

しかし、どうもそれは、死の本当の姿を知ることの怖さから逃れるために人が作り出した、想像の産物ではないのかという疑問が、いつの頃からか頭を支配するようになりました。薄々感じていたのです。本当は2ではないかと。

私たちの心は体調により簡単に左右されます。また、鬱病などの精神病は、脳の神経伝達物質の働きが正常でなくなることが直接的な原因とも言われています。つまり、私の心、私の意識は、その入れ物である体、さらに限定すれば脳なくしては、維持できないのではと思えてきたのです。
「心や意識は、単に脳細胞間で発生する複雑な電気信号のやりとりの結果にすぎない」と主張したいわけではありません。科学では生命の働きを詳しく調べることはできても、なぜ「意思」を持った生命が存在しえるのかは説明ができないと思っています。この件については今後、機会があれば書こうと思います。

科学で説明できない生命の不思議はあるにしろ、どうも脳が心の入れ物であることは確からしい、ならばその脳が死んで機能しなくなったり、燃やされて分子がばらばらになった時、私の心つまり意識は、なお存在し続けることができるのかと考えたとき、現時点では、考えれば考えるほど、それは不可能だ、心は無になるという答えに行き着くのです。
これは、現時点での私の考えですので、今後変わるかもしれません。

こうして私は2の、死んだら無になるという考えを持つようになりました。
するとどうでしょう、今まで漠然と信じていた、死後も意識が残るという考えから来る、これまた漠然とした安心感の外に放り出されて、奈落の底に突き落とされたような恐怖感が襲ってこないでしょうか。私は襲ってきました。
死ぬことが怖いのではありません。死んで無になることが怖いのです。死ぬときの痛みや苦しみも怖いかもしれませんが、それよりも、死んだらそういった痛みや苦しみを感じる「私」自身がなくなる、そのことが怖いのです。
地獄で苦しみ続ける方が、ある意味マシかもしれません。私という存在がなくならないのですから。

私は、生まれる前も無でした。何十億年もの間、私の心や意識は存在しませんでした。それが36年前に突如として生を受けて「私」が存在するようになったのですが、生まれる前の無を私は怖かったとか不幸だったとは特に思いません。もう少し早く生まれていれば、坂本龍馬と会えたかもしれない、とは思いますが、その程度です。
そして、あと100年もせずに私は再び無になり、何十億年もずっと生き返らず無のままなのですが、なぜかこれはとてつもなく怖い。ずっと生まれなければこういう思いをもたなくて済んだのですが、生まれてしまったのです。
わずか100年にも満たない間ですが、「私」という存在を与えられてしまったのです。

こう考えると、人生で一番のテーマが、死ではないかと思えてくるのです。「どうせ死ぬのだから生きている間の他の事は重要ではない」と言っているのではありません。人生には、他者とは何か、愛とは何か、などたくさんの哲学的テーマがあふれています。仕事や遊びにしても、無意識に機械的にしているのでなければ、そこには多くの意味があるでしょう。
そういったいろいろなテーマに取り組みながらも、一番最後まで解決せずに残るもの、それが死ではないでしょうか。

長くなりましたが、私がなぜ死について繰り返し考えるようになったのかを、書いてみました。
機会がありましたら、また死をテーマにした記事を、書いてみたいと思います。

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2012/02/01 | Comment (2) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

初投稿

   ↑  2012/01/31 (火)  カテゴリー: 未分類
こんばんは、ひこふです。

他人のブログを読むのは簡単でも、いざ書こうとしてみるととても難しいもので、今までブログを持つことを躊躇していたのですが、時々、書きたくなることがあっても書く場がないという場面に遭遇することもあり、文章が下手でも、後で読み返して恥ずかしくなっても、これも自分かなと思い、ブログを持つことにしました。

ブログのタイトル「ホロデッキ」は、SFテレビドラマ「スタートレック」に登場する、24世紀の宇宙艦内に設置された、娯楽や訓練に使われる仮想現実の施設です。
ホロデッキの中では、現実の世界を離れてあれこれ楽しんだり考えたりできます。
このブログが私にとってそういう場であり、読者の方にとってもそういう場であることができればと思います。

まあ、はじめから堅くなると何も書けなくなるので、ホロデッキの中だけでは自信家になれたバークレーのように、気軽にこのホロデッキの中を歩いてみようと思います。

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2012/01/31 | Comment (0) | Trackback (0) | ホーム | ↑ ページ先頭へ ↑ |

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